2020-02-25 第201回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
胎児のころから数えて二歳の誕生日までの、人生最初の千日の保健衛生が重要であるという考え方がありますが、日本がこの点、どのような取組を進めているのか、お聞かせいただきたいと思います。
胎児のころから数えて二歳の誕生日までの、人生最初の千日の保健衛生が重要であるという考え方がありますが、日本がこの点、どのような取組を進めているのか、お聞かせいただきたいと思います。
こういう形で、国際社会が対処すべき課題の一つということでしっかり共通認識ができているところだと思いますけれども、特に人生最初の千日においては、妊産婦と新生児に対する保健サービス及び貧血や発育阻害等の栄養不良を改善する栄養サービスの両面が重要だというふうに認識しております。
それで、人生最初の部分の負担のちょっとバランス感を私はお伺いしたいなと思っているんですが、今、もちろん、幼児にもやっていますし、例えば高校の私立の無償化、大学の給付型、全部大事なんですけれども、少子化を解決すると考えたときに、圧倒的にゼロ歳から五歳にシフトしなければいけないんじゃないかと私は思っているんです。
高校受験は、最近では小学校、中学校の受験もふえたとはいえ、やはり基本は人生最初の大きな試験であり、将来を大きく左右すると考えてしまう生徒や保護者が多うございます。そういうことも現実でございます。 その中で、今回の事件は大きくワイドショーやニュースに取り上げられ、国民の大きな関心の一つとなってきております。
実際、私も、人生最初の救急外来の当直をしたとき診た患者さんは、実は三十日の新生児でした。これは、三百以上のハートレートの頻拍で来まして、そのとき小児科医は私がいた病院は十五人いたんですが、全員総出で診たんですけれども、結局何かわかりませんでした。すぐ入院させて、最終的に腰椎穿刺をした場合、これは細菌性髄膜炎であることがわかりまして、しかし、この子は広範な脳梗塞を起こしました。
連携が必要でございますけれども、重要性という点においては、子供の健やかな育ちを支えていくその基盤はやはり家庭であろうと思っておりますし、親は人生最初の教師として、豊かな情操や基本的な生活習慣、社会的なマナーや自立心を養う上で重要な役割を担っていると認識をいたしております。
また、家庭は教育の原点であり、親は人生最初の教師であると言われますが、今、子供の成長にとって大きな役割を果たすべき家庭の教育力の低下が指摘されております。さらに、成長の過程で自分の将来の明確な目標を持つことができないがゆえに、無気力なままニートやフリーターとなる若者も存在するという現実も憂うべきでありましょう。
○銭谷政府参考人 今日の教育基本法の改正の議論の出発点となりました教育改革国民会議の提言の中では、教育の原点は家庭であり、親が人生最初の教師であって、教育という川の流れの、最初の水源の清冽な一滴となり得るのは家庭教育であるということで、家庭教育の重要性について指摘をいたしております。 昨年の中教審の答申においても、同様の指摘がなされているところでございます。
親は、そういう意味では人生最初の教師なんですが、そういう自覚が今日なくて、それぞれ別姓で自分の権利だけを主張している、そういう感が私には持たれるわけであります。 子供にとっても、小さいときは別姓ということはわかりませんから、お父さんと仲よくふろに入っているんですが、ある日突然、あっ、お父さんの姓と自分の姓が違う。そのショックはいかばかりか。
親というのは人生最初の教師だという自覚がまずないですね。そういう意味で、もっと子供のことを考えるべきだと思うんですが、それがなされていないからいろいろな問題が起きる。 特に私は、育児と仕事の両立というのは幻想だと思うんです。あえて育児を先に持っていきました。仕事と育児と言いません。育児の方が、二十一世紀を担う社会の宝の子供の方が大事なんです。
「親が人生最初の教師であることを自覚すべきである。」、こういうふうに申されているわけでございますが、今、親御さん自身もいろいろ悩んでいるんじゃないかなと思います。 私は、乳幼児期の親と子供のスキンシップ、これがすごく大事であると常々思っているんです。
農業の持つ国土保全機能、自然環境の保全機能、コミュニティーとしての役割、自然との触れ合いを通じ豊かな心を醸成する役割を評価して、基礎的食糧の自給体制を確保することを基本に考えてまいりたいと思います、 次は、教育問題について申し上げます、 人生最初に出会う教師は親であります。心豊かに、人としての基本を身につける第一義的な指導は、親の協力なくしてはできません。
恐らくかなり多くの人にとっては人生最初の体験であったのではないかと思いますが、これだけ多くの人が国づくりに参画されたということはまことに感銘を受ける出来事であります。
そして、人生最初の社会参加は教育、すなわち学校ということになります。学校を子供たちにとって社会と呼ぶならば学校社会ということになろうかと思います。ですから、障害を持った人にとって学校というものが持つ重みはある意味では障害を持たない人たちよりも重いものがあると言っても過言ではないと思います。 その重みのある学校をめぐる一つの出来事がありました。
ですから、学校現場にお願いしています教育課程の中で、今も道徳領域の指導はございますが、それでいいのかどうかも教育課程審議会に今審議をお願いしておるところでありますし、私たちはそれよりも、もっとそれを乗り越えて、授業の時間や体操の時間や放課後の時間等も含めて、学校活動全体の中でもやっぱりちょっと目をかけていただくとか声をかけていただくとか、人生最初の教師であるお父様お母様にも特に御家庭で気をつけていただくとか
けれども、私なりにそれを全部重ね絵のように合わせてみて考えてみますと、児童生徒の心をやはり閉ざさせてはだめなんだ、それは人生最初に出会う教師であるお父さん、お母さんが御家庭でやはり絶えず物を言っていただくとともに、同世代年齢が初めて集まる学校の場、特に教師の立場というのは、直接児童生徒に触れていただくのですから、そこで言葉をかけ、励まし、手を差し伸べ、相談相手になってやっていただくことによってまずこれは
日米ともに現場の先生がそういうことを考えていらっしゃるということは、やはり第一に、道徳心というか正義感というか、人に対する思いやりの気持ちというか、そういったものをもっともっと身につけさせることが一番の原因で、二つ目は、私もいつも言っておりますが、人生最初に出会う教師は学校の先生じゃなくてお父様、お母様でありますから、お父さん、お母さんが家庭のしつけというものを学校へ行く前の教育段階としてしっかりと
をやるときに、クラス対抗のリレーをやらないで町内対抗のリレーにして、登校下校のときに通学区で一年生から六年生までグループをつくっておるわけですけれども、それを適正に集めて対抗リレーにするとか、いろいろ知恵を使って教育をしていらっしゃる現場の実例等はみんないい効果を上げているようでもございますので、家庭に教育的機能がだんだん希薄になってきておる今日、同世代年齢、異世代年齢がともにぶつかり合うことのできる人生最初
○国務大臣(海部俊樹君) 児童生徒を取り巻く環境を整備していただいて、同時に、教育は人なりと申しますが、人生最初に出会う教師であるお父様、お母様とかあるいは学校の先生方の性教育に対する、何か性教育をすることは難しいことだ、恥ずかしいことだというようなことからもう一歩前進して、正しい科学的な知識に従って実際の御指導なんかもいただけるということは、私は今御質問を聞いて大変結構な方向だと思いますので、それぞれの
どうしたらいいかということでありますけれども、これはやっぱり、ケース・バイ・ケースという言葉が当たるかどうか知りませんが、いじめがどこでどのように行われておるのかということを、的確な把握がまだ十分に行われていないのではないかという疑いを私は持っておるわけで、これは人生最初に出会う教師はお父様でありお母様ですから、やっぱり御家庭で、子供との日常の接触の中で何か変わったことがあるなとお気づき願わなければならぬし
これは御家庭のお父様、お母様が人生最初に出会う教師としてしつけとか思いやりなんかは当然教えていただかなきゃならぬと思いますが、児童生徒と直接毎日触れていただく学校の教師の皆さん方に、どうか心を開いて、悩みがあったら、落ち込んだときがあったら励ましてやってください。
ですから、御家庭のお父さん、お母さんは人生最初の教師ですから、これは寝起きをともにされるわけですから当然おわかりいただけると思うけれども、いじめが起こったり、いじめによっていろいろ子供の心が傷ついていくという現場が学校であるならば、どうか先生方は少なくとも見て見ぬふりなんかはなさらないように、同時にこんなささいなことはいじめではないだろうと、自分の育ったころの大人の物差しで当てはめないで、やっぱり親切